2016年01月15日

ブラジルで21年ぶりに民主主義政権が誕生


今年はブラジルのリオでオリンピック・パラリンピックが
開催されますが、今から31年前の1985年1月15日、ブラジルの
野党候補であるタンクレド・ネベス氏が大統領選挙戦に勝利し、
軍事政権後の初の民主主義政権が誕生しております。

ブラジルは1964年に軍事クーデターがあり、それ以来軍事
政権が政治権力を掌握しておりました。

ネベス氏は、このクーデター前の最後の民主主義政権の首相で
した。

21年間にわたる軍事政権後、初めて行われた選挙で、6年間の
任期を持つ文民大統領に選出されたものです。

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posted by gyuchan at 10:10 | 今日の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月12日

米国ミサイル炎上で3人が死亡、12人が負傷


今から31年前の1985年1月12日、西独のハイブロンで米国のパー
シングUミサイルの固体燃料が訓練中に燃え上がり、米兵3名が
死亡、12人が負傷するという事故が起きております。

ハイブロンは西独の南部にありますが、事故はその近くのミサイ
ル倉庫で発生したもので、固体推進燃料が発火し炎上しましたが
幸い爆発せずに済みました。

「武器を必要としない世界」が一時も早く実現することを
願うばかりですが、その前に地球が滅亡してしまうかも
しれませんね。


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posted by gyuchan at 10:57 | 今日の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月11日

通産省が自動車輸出の自主規制を決定


輸出産業が果たす日本経済への影響は依然大きいですが、
25年前もやはりアメリカへの自動車輸出で、日本車が安い
こともあって、貿易摩擦の一因になっておりました。

このため、アメリカとの関係が悪化することを防ぐために、
自動車の輸出台数を自主的に制限する自動車輸出自主規制
を行なっております。

この自主規制は、当時の通産省と自動車メーカーが1981年
に協議を行い、年間168万台を上限とすることでスタート
しましたが、途中で230万台まで拡大されております。

1990年1月11日に、通産省は1990年も輸出の上限を230万
台とすることを決定しております。

この自主規制は1990年代に入っても続けられ、1992年は、
アメリカの自動車産業の不振や対日強硬論が台頭し、
上限枠を165万台まで引き下げております。

アメリカの自動車産業は現在回復基調にありますが、当時
は他国車を規制することで自分たちの利益を確保し技術面
での競争に力を入れなかったことがこのような措置を日本が
講じなければならなかったことが、背景にあったものと見ら
れます。

ちなみに1990年に活躍した日本車は「カムリ」でした。


トヨタの米国工場経営―チーム文化とアメリカ人 -
posted by gyuchan at 09:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 今日の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月10日

キューバ軍がアンゴラから撤退開始


今から28年程前は南アフリカがアパルトヘイト政策を推進
するため、ナムビアやアンゴラ等の近隣諸国に侵入するなど
常に緊張が高まっておりました。

そして、アンゴラ政府軍が反政府団体であるUNITA(アンゴラ
全面独立民族同盟)に大攻撃を仕掛けた際に、南アフリカ軍
はUNITAを支援するためアンゴラ政府軍に越境攻撃を仕掛け、
アンゴラ政府軍に大きな痛手を与えたことがあります。

一方、アンゴラ政府と仲の良いキューバ政府は早くから
キューバ軍を派遣し、13年以上もアンゴラに駐留しアンゴラ
を支援する役割を演じておりました。

1988年3月に、キト・クアナバレでUNITA・南アフリカ軍と
アンゴラ・キューバ軍が軍事衝突し、本国から増派された
キューバ軍が南アフリカ軍を撃退する事件が起こりその後
はキューバ軍が国境線まで進出してアンゴラの警備にあた
る状況が続いておりました。

このような事態を受けて国連が和平の仲介を行い、1988年
12月にアンゴラ・キューバ・南アフリカの3国間で和平合意
がなされ、1991年7月1日までにキューバ軍が撤退すること
になりました。

この合意に基づき、1989年1月10日にアンゴラ駐留のキューバ
軍の第一陣450人が多数のアンゴラ国民に見送られてルアンダ
空港から帰国の途についております。

《紛争後の復興開発を考える‐アンゴラと内戦・資源・国家統合・中国・地雷》

紛争後の復興開発を考える‐アンゴラと内戦・資源・国家統合・中国・地雷‐ -
posted by gyuchan at 10:02 | 今日の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月09日

湾岸戦争の危機!米・イラク会談が決裂


1991年1月9日にイラクのクエート侵攻について米国のベーカー
国務長官とイラクのアジズ外相が湾岸戦争になるのを防ぐため
6時間にわたり話し合いを行ないましたが、合意に達せず話し合
いは決裂しました。

クエートからのイラク軍の撤退について両国とも譲らず、この
ため湾岸戦争への突入は避けられない情勢となっております。

米国の当時のブッシュ大統領は、平和に向けて努力はするが、湾岸
危機における軍事力行使に対する議会の支持を要請し、戦争に備える
と語っております。

〈図説〉湾岸戦争 (Rekishi gunzo series―Modern warfare) -
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2016年01月08日

ソ連がリトアニア独立阻止介入で13人死亡


1990年3月4日にリトアニアで共和国最高会議の議員選挙が
50年ぶりに自由な形で行なわれ、共和国最高会議議長に
初めて非共産党員のランズベルギス氏が就任し、3月11日に
ソ連からの独立を宣言しておりますが、ソ連政府はその独立
宣言の撤回を要求するとともに、リトアニアに対して経済
封鎖などを行ないました。

しかし、リトアニアは独立を撤回せず、このためソ連は、
1991年1月8日にソ連軍をリトアニアに投入しました。
そして1月13日、リトアニア共和国の主要放送施設の占拠と
同共和国の首都であるビリニュスに夜間外出禁止令を布告
しております。

ソ連軍のこの行動により、少なくても13人が殺害され、140
人以上が負傷しました。

リトアニアのサウダルガス外相は、ワルシャワで選挙で選ば
れたリトアニア共和国政府が、その任務を果たすことが不可能
となれば、亡命政権を樹立する用意があることを表明しており
ます。

《リトアニア―民族の苦悩と栄光》

リトアニア―民族の苦悩と栄光 -
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2016年01月07日

トルーマン米大統領が水素爆弾開発を発表


昨日は北朝鮮が水素爆弾の実験に成功したことを発表し
世界的な批判を浴びていますが、63年前の1953年1月7日、
当時の米国大統領だったハリー・トルーマンが一般教書
演説を行い、その中で米国が水素爆弾を開発したことを
発表しております。

水素爆弾の開発については、ソ連が1949年に原子爆弾を爆発
させる計画を決定しておりますので、これに対抗するために
トルーマン大統領は水素爆弾の開発をする計画を3年前に発表
しておりました。

広島と長崎に原爆を投下し、人類の地獄絵の世界を作り出した
にもかかわらず、さらにその1000倍も殺傷力が強いといわれる
水爆を開発するとは、いかなる理由があっても許されるもので
はありません。
人間の愚かしさを感じます。

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posted by gyuchan at 10:24 | 今日の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月05日

イラン・イラク戦争でイランが大反撃を発表


1980年9月22日未明にイラク軍がイランの10の空軍基地を爆撃
したことで始まったイラン・イラク戦争は、第一段階ではイラ
ク軍が優勢でした。

しかし、年が明けた1981年1月5日、イランのパニサドル大統領
が会見を行い、イラン軍が西部および南部戦線で大反撃を開始
し、第一段階においてかってない大成功を収めたことを発表し
ております。

イラクの奇襲攻撃ともいうべき爆撃で始まった戦争であるため
イランは一時追い詰められましたが、幸いイラクの空爆による
飛行機の損傷は免れたため、イラン地上軍と空軍による最初のイ
ラク攻撃が可能となり実を結んだものでした。

このイラン・イラク戦争は1988年まで続き、この年の8月20日に
国連安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎えており
ます。

イラン・イラク戦争 山崎雅弘 戦史ノート


posted by gyuchan at 10:25 | 今日の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月04日

イメルダ・マルコス大統領夫人が亡命先から帰国


フィリピンの第10代大統領として20年間にわたり権勢を
振るい1986年の人民革命で打倒されアメリカのハワイに
亡命したフェルナンド・マルコス大統領の妻として仕え、
マルコス大統領が病気の時は、代わって国政にも介入した
イメルダ・マルコス夫人が約6年に及ぶ亡命生活を終えて、
1991年11月4日に、ホノルルからボーイング747型チャーター
機で帰国しております。

イメルダ・マルコス夫人は動員された数千人のマルコス支持
者に対して、1989年に亡命先のハワイで死亡したマルコス大
統領にきせられた汚名を晴らすため帰国したと報告しており
ます。


実録イメルダ・マルコス―フィリピン大統領夫人の知られざる過去 -
posted by gyuchan at 10:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 今日の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

ツタンカーメン王のミイラ発見

Tutanchamun_Maske.jpgツタンカーメン.jpg

今から91年前の1924年1月3日、エジプトのファラオ・
ツタンカーメンのミイラが発見されております。

場所は、この年の2年前にルクソール近くで貴重な宝物
が発見されたツタンカーメン王の墓でした。

ミイラは発見された石棺の中に安置されていたといいます。

ツタンカーメン(トゥトアンクアムン、Tutankhamun)は、
紀元前14世紀(紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)に古代
エジプト第18王朝のファラオとして君臨した人物で、壮麗
なマスク像で多くの人に知られています。

(ホビー用品:ツタンカーメン)
ツタンカー面 -



posted by gyuchan at 11:28 | 今日の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月02日

ロシアとウクライナが経済自由化へ移行



今から23年前の1992年1月2日、ロシアとウクライナが
これまでの統制経済から自由化への道を歩み始めました。

ほとんどの物資について価格自由化を実施し、市場経済
移行へ向けて苦難な道の第一歩を踏み出したわけです。

この自由化により、食肉から映画料金までほとんどの
物資やサービスは価格が上昇しましたが、相変わらず
物資不足の状況は改善されず、店の棚には品物がなかった
と言います。

価格の自由化と企業の民営化が生産性をあげる上で必要
であるとするエリツィン・ロシア大統領や経済専門家の
主張により、これまでの路線を転換することにしました
が、前途は厳しいものがありました。


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